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東京家庭裁判所 昭和60年(家)9270号 審判

申立人 王文徳

主文

申立人が次のとおり就籍することを許可する。

本籍 東京都千代田区○○×丁目×番地

氏名 山口久男

出生年月日 昭和14年ころ

父母の氏名 不詳

父母との続柄 男

理由

第1申立ての趣旨及び実情

申立人は、主文同旨の審判(ただし、出生年月日については、「昭和14年以下不詳」として就籍することを許可する旨の審判)を求め、申立ての実情として、大要、「申立人は、いわゆる中国残留日本人孤児であり、日本国民である父及び母の子であつて、日本国籍を有するものであるが、日本に本籍を有しない。」旨述べた。

第2当裁判所の判断

申立人代理人提出の資料、厚生省援護局業務第一課調査資料室提供の資料、家庭裁判所調査官○○○○作成の調査報告書、その他一件記録中の資料に基づく当裁判所の事実認定及び法律判断の要旨は、以下のとおりである。

1  次の事実は、一件記録中の資料によりこれを認めることができる。

(1)  (孤児証明書の存在)

申立人については、1980年(昭和55年)7月25日、中華人民共和国遼寧省瀋陽市公証処から、「申立人は、日本血統の孤児であることを証明する。」旨の、いわゆる孤児証明書が発行されている。

(2)  (孤児名簿への登載及び訪日調査の実施)

申立人は、昭和58年3月に厚生省援護局が作成した「肉親捜しの手がかりを求めている中国残留日本人孤児」という冊子(いわゆる孤児名簿)に登載されている。また、申立人は、昭和56年3月、第1次中国残留日本人孤児訪日団の一員として来日し、肉親捜しを行つたが、その身元は判明しなかつた。

(3)  (中国人養父に預けられた当時の状況)

申立人の母は、黒龍江省の開拓団に属する日本人であつたが、ソ連参戦後、申立人及びその姉妹を連れて長春市に避難してきた。申立人は、昭和20年末ないし昭和21年初めころ、母が病気になつたことから、長春市において、中国人袁世仁の妻(宮田良子)の仲介により、中国人王子伯(1947年死亡)に引き取られた。

2  この種の事件においては、事柄の性質上、正確な事実認定は困難であるが、本件については、上記のように、中国及び日本の関係当局により申立人がいわゆる中国残留日本人孤児であるとの扱いがなされていること((1)及び(2)の認定事実)と、当時仲介に当たつた宮田良子の供述等により申立人が中国人養父に預けられた当時の状況((3)の認定事実)がかなりの確かさをもつて認定し得ることから、申立人に関しては、少なくとも、申立人が出生した昭和14年ころ当時の国籍法(明治32年法律第66号)3条所定の「父カ知レサル場合・・・・・・ニ於テ母カ日本人ナルトキ」に該当するものとして、出生により日本国籍を取得したものであると判断される。

そして、申立人が中国国籍を取得しているのかどうかは一件記録上必ずしも明らかではないが、いずれにしても、申立人が自己の意思に基づき中国国籍を取得しようとした事実は、これを認めることができない。また、他に、申立人が出生によって取得した日本国籍をその後喪失したことをうかがわせる資料もない。

3  申立人は、これまで日本人の肉親捜しに努めてきたが、いまだにその身元が判明しないので、現段階では、本籍の有無は明らかではないとして扱うべきである。

4  したがつて、申立人に対しては、就籍を許可するのが相当である。そして、就籍事項については、申立人の希望及び一件記録中の資料に照らして、主文記載のとおりとする(申立人の出生年月日については、一件記録中には「1939年7月16日」及び「1941年7月16日」という表示があり、そのいずれが正しいかを判定することができないので、単に「昭和14年ころ」とするのが相当である。)。

5  よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 河邉義典)

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